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いかに人間らしく最期を迎えるか [アダルトチルドレン]


橋田壽賀子さんが安楽死を望むという記事を目にして、考えたこと。(一部グロい表現があるので、お食事中の方は読まれないことを推奨いたします)


自殺衝動に悩まされることがなくなったとはいえ、どう最期を迎えたいかということは常日頃よく考えます。

自由を奪われることが極度の恐怖で、閉所に入ると窒息しそうになる私にとって、チューブまみれで無駄な延命治療を施されて病院のベッドの上で最期を迎えるということは絶望以外の何物でもありません。

これまで二度、ちょっとした手術と食中毒が原因で、それぞれ一週間程度の入院をしたことがあるのですが、日々自分の魂が弱っていくのを感じました。


親族中で一番年下で近い血筋に甥や姪もなく、驚異的な長寿家系の私は、大病や事故に合わず天寿を全うするとなれば、8歳上のキリストダンナより長生きし、一人で最期の時を迎えるはずです。

楽しい瞬間にポックリいくのが理想的ですが、それが叶わないならばどこかの山小屋でひっそりと野垂れ死にして、動物に喰われたり細菌に分解してもらって大地にそのまま還りたい。


しかし、そうして最期を迎えると、「孤立老人が孤独死」と、哀れみを持って見られることになるのかもしれません。しかし、人間は誰だって死ぬときは一人なのに、なぜ孤独に死ぬことがいけないのでしょう。なぜそんなに一人で死ぬことを恐れなくてはいけないのでしょう。最期まで自発的に自由を貫いて亡くなった方もいるかもしれないのに、すべてを一括りにして哀れな色を付ける「孤独死」という言葉が私は大嫌いです


確かに、私は親族に警察関係者がおり、いわゆる「孤独死」や自ら命を絶たれて時間が経った現場の凄惨さを聞いたことがあります。最期にそうして誰かの手を煩わせるのは、申し訳ないものです。

また医師がいないところで亡くなると、不審死扱いで司法解剖をされ、冷たい台の上で主要な臓器を全部出され検査されるとのことで、「そんな姿は居たたまれないから、死ぬときは病院で死んでくれ」とも言われました。その思いにはできる限り応えたいとは思いながらも、それでもチューブにつながれて病院で死ぬのはなんとしても避けたいと思ってしまうのです。


しかし不治の病で動けなくなって、出来ることは苦痛を緩和するだけになったり、痴呆で完全に意識を失って周りに迷惑をかけるようになってしまいそうになったなら、その時には安楽死を選べたらと考えています。最近、スイスやベルギーをはじめとして安楽死が合法化された国が増加していますが、いつか日本にもその選択肢が増えることを願ってやみません。

法律の問題なども複雑に絡まって簡単には進まない議題ではありますが、これからますます高齢化や長寿化が進む中で、いかに人間らしく死ぬか、もう少し気軽に意見を言い合えるようになる空気が増えるといいなあと考えています。


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人間の尊厳を問う、こんな映画もありましたね


ただ、こうしていかに死ぬかということを散々語ってきたわけですが、死ぬことの意識で、以前と大きく変わったことがあります。

自殺衝動に駆られていたときは、「死んで楽になりたい」と常に思っていたので、災害などの際に、自分が死ぬことで誰かが助かるのなら、喜んで命を差し出したいと思っていました。と同時に、人を押しのけてまで生きることに執着する人が心から羨ましく、「生きていて何がそんなにいいのか。その秘密が知りたい」と思っていました。

でも今の私は、多少の波に揺られたりはするけれど、生きることをとても楽しめるようになりました。これから色々なことをやりたいから、まだまだ人生を終わりにするわけにいきません。煩悩から自由になる悟りの境地に憧れはするけれど、今はこんなふうに命に執着できることになったことをとても幸せに感じています。


昔の私のように、生きることに執着したいのに出来ずにもがいている方へ。きっとそんな苦しい思いが終わる日がいつか来るはず。だから諦めないで生きてみてください。そんな煩悩まみれの幸せな日が来る時まで。



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