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脳内埃とノイズキャンセリング瞑想 [ADHD]


今日はいよいよ大晦日。日を跨いでも、環境が激変するわけでもなく、体の組成が変わるわけでも無く、いつも通り次の日がくるというだけのことですが、新しい年を迎えるというのはやはり格別のフレッシュさがあります。


毎年、年末はバタバタと過ごしほとんど大掃除もしないまま新年を迎えていましたが、今年は半ば強制的に引きこもり、やり残したことを集中的に片付けました。凄まじくとっ散らかっていた部屋の片付けと断捨離もしたら、ようやく頭と心がクリアになってほっとしています。



私には、頭の中にいつも言葉や思考の埃がたくさん飛んでいる感覚があります。何事にも集中力が持続できないのはそのせいもあるのですが、部屋が散らかっていると頭の中まで散らかってくるので、私は身の周りの片付けを常にエンドレスでしています。

そして困ったことに、こうした埃は、「面倒臭いからやめようよ」「こんなこと無駄」「何やってもお前はだめだね」「他のことをやろうよ」と好き勝手な声を発して私の集中力を崩し、自信を根こそぎ引っこ抜いていくのです。

たぶん、もともとの私の脳の構造と、育った環境の両方が原因だと思うのですが、ネガティブなものが多い、絶え間なく続くこの雑音には耐え難いものがあり、私は長い間苦しみました。



この五月蝿い雑音をなんとしても消すべく、ヨガ、瞑想についての本のリサーチ、お寺での坐禅、上座仏教の瞑想、マインドフルネス、モーニングページ幻覚茶など、これまで色々試してきたのですが、結果として、どれも効果的で私の心と頭をかなりクリアにしてくれても、座っているとすぐに寝てしまうし、体を痛めたり、なんとなく違和感があったりして、それぞれの方法論に継続して完全に自分をフィットさせることはできませんでした。

瞑想自体は素晴らしい解決法と思えたのですが、頭の埃を一掃してすっきり綺麗にしたくても、私には埃を落ち着かせて地面に着地させることくらいしか出来ない。しかも着地させても、またすぐに埃は舞い上がってしまう。



段々そうわかってきた私は、考えた挙句、それぞれの自分に合うところを寄せ集めた、2種類のハイブリッド瞑想に行き着きました。埃を完全に黙らせることはできないならば、一時的に別のところに吸着させて、雑音を雑音で消してしまおうという、名付けて「ノイズキャンセリング瞑想」です。

具体的には、「散歩瞑想」と「YouTube瞑想」というもので、名前なんてつけてみましたが、みなさんが普段、普通にしているなんてことないものです。



散歩瞑想は、1時間好きな音楽を聴きながら、一歩一歩意識して歩くこと。もともと歩くのが好きで夜の散歩を日課にしていたので、そこに「歩く瞑想」をくっつけました。最初の30分は、埃が好き勝手頭の中を暴れまわっていますが、不思議なことに30分を超えたあたりから、地面に落下し始めて、頭の中がしんと静まってくるのです。こうなると、何かよいアイデアや解決策を思いつけるようになるので、私は行き詰まった時に散歩瞑想に出るようにしています。



そして、作品を制作するときには、その名の通り、好きなYouTubeを聞き、深めの呼吸をしながら行う「YouTube瞑想」です。この瞑想に向いているのは、目を使わず聞くだけでよく、そこそこ頭を使う面白い内容で、探す手間がはぶけるシリーズもの。私のお気に入りは、マイケル・サンデル教授のご存知「白熱教室」や、夏目漱石や池波正太郎の著作の朗読、ラジオ番組の録音など。こちらの内容に、私の頭の中の五月蝿い埃たちが引きつけられている間に、頭と心を「無」に近い状態にして作業をするのです。



読み返して、我ながらなんてことがなさすぎる方法だなと呆れながらも、最近この方法を確立してから、私の頭の中はだいぶ扱いやすくなってきました。頭の中に声がとっ散らかっていて黙らせたいと思ってる方がいらっしゃったら、こんな方法はいかがでしょうか。


ということで、あと何時間かの2017年の最終日、心をクリアに穏やかにして平和に新年を迎えたいと思います。


皆様、よいお年を。今年一年、本当にありがとうございました。



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不惑も変わらず節操なく [アダルトチルドレン]


昨日誕生日を迎えて40歳になりました。今年の4月に入ってからはすでに40歳の気分でいましたが、いざ大台にしっかり乗るとなかなか気分が違うものだなと感じています。


人生が80年か90年としたら折り返し地点にたどり着きつつあるわけで、もともと常に終末のことを考え続けてきた人生とはいえ、この残りの半分をどう過ごしていくべきかぼんやり意識をするようになってきました。

「四十にして惑わず」などと、そろそろやることを絞っていかにゃいけないよと尻を叩かれるような40歳。ただ、能楽師の安田登さんによると、もともとの論語の「不惑」には、「自分の可能性を限定せずもっと自由に広げていけ」という真逆の解釈もあるようなので、私はこちらに乗っかっていこうと思っています。



私はご存知の通り、最近、アダルトチルドレンのサバイバーとしての情報発信をブログで始めました。それに伴い私と同じような体験をされてきた方が沢山声を寄せてくださったので、なんとなく世の中にはそんな方ばかりと勘違いをしてしまっておりました。

しかし、世の中のほとんどは、やはり愛情豊かな環境で育ってきた方なのかもしれません。そういう方々にとっては、私のような人間は「考えすぎだよ」「繊細すぎる」と思われてしまうことでしょうし、そこには、簡単に埋まらない大きな溝があります。

でも、私の役割は、「こうして育ってきた人間も少なからずいる」ということを発信し続けながら、なによりも昔の自分のように心細い思いで孤立している人に「死なないで」というメッセージを届けること。ほとんどの人には響かなくても、一人でも二人でも必要としてくれている人に届けるべく発信を続けていこうと、改めて不惑の初日に決心しました。



実は、ブログを始めて三日目に、IT界の女帝と言われる奥田浩美さんにお声がけいただき、来月にシリコンバレーで行われる女性起業家を育成するプログラム「Women’s Startup Lab」に参加させていただくことになりました。起業家でもない私に何故という戸惑いと、憧れの存在だった奥田さんにお声掛けいただいたことにとにかく驚きつつ、このような素晴らしい機会に自分に何が出来るかを徹底的に探してこようと思っています。



40歳という節目の直前に穴から抜けられたことには、なにかしらの意味がありそうだとも感じています。これからの後半は、ますます興味を持ったことに節操なく手を出しながら、その時々で自分に出来ることに全力で突っ込んでいこうと思います。


一緒に笑ってくださったり抜け漏れが多い私を支えてくださる皆さま、いつも本当にありがとうございます。次の一年も引き続きお付き合いいただけましたら、大変に幸いです。



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性差撲滅のために [アダルトチルドレン]


#MeTooが世界的なムーブメントになっています。こういうムーブメントには腰が重く乗り遅れがちな私ですが、私自身も以前被害にあい、最近思うこともあったのでこの機会に書き残しておこうと思います。



社会人になりたてで、まだあまり世の中がわかっていなかった頃。当時の上司と二人だけで出張に行くことが増えたある日、朝食の席で突然ティファニーのハートのネックレスを渡されました。

びっくりして「受け取れません」と断った私でしたが、

「何言ってんだ、下心なんてあるわけないだろ。お疲れさんの気持ちだよ」

とかわされ、仕方なく受け取ることに。しかしそこから抱きつかれたりみるみる距離が近づいてきて、身の危険を感じた私は、彼氏に怒られたということにし「下心はないとわかっているのですが」と何週間かの後に返却しました。

「じゃあうちの娘にあげるか」

と上司は笑い、その場は収まったものの、その日から陰湿な嫌がらせが始まり、根も葉もない噂を流され、しまいに別の支社に飛ばされました。無知で未熟だった私は、それまで上司を信用して色々なことを打ち明けてしまっていたのですが、そこもつかれ、精神的にも追い詰められました。

これがあまりにもスムーズかつスピーディに行われ、「あなたの被害妄想だよ」だとか「あなたも隙あったしね」と言われることが恐ろしかった私は、会社の誰にも打ち明けられず、まもなく退社しました。


このことは、「人を簡単に信じてはいけない」という教訓を身を以て覚えさせられた苦い経験となりました。また、セクハラのターゲットにならないように立ち回る術も覚えましたが、こんなことは本来取得する必要のない馬鹿馬鹿しいことです。



以前、講演をお聞きした、元ユー・エス・ジェイCMOで現在は経営コンサルをされている森岡毅さんは、USJ時代から、会社の成長を阻むのは「年齢差」「役割差」「性差」として、その撲滅に尽力されていたそうです。

中でも「性差」については、女性だけに課されたお茶汲みや制服など、小さいながらも全員が当然のように受け入れてしまっていることが性差を無意識に植え付けるものとして、徹底的に撤廃されたとのこと。はじめは男女とも「そんなことくらい別にいいのに」と不思議に思っていたようですが、撤廃後はびっくりするほどフラットな風通しのよい組織に変わったそうで、その威力を感じました。


その一方で、最近残念なことも耳にしました。私も大好きなグループが主催した宴席で、未成年の女性たちに大人の男性が

「女の子のお酌ひとつでおじさんたちが喜ぶんだから、覚えておくといいよ」

とアドバイスをしたとのこと。お酌は処世術であるという声もあるでしょうが、これからグローバルな社会に出て活躍する女性たちにとって、男性にはかしずくものという意識の刷り込みは、エネルギーを削ぐ以外の何物でもないと、失望と憤りを感じました。

こんな小さなことに目くじらを立てる必要なんてない、と言われるかもしれませんが、セクハラの意識のおおもとにあるのはこのような些細なことだと考えています。



ただ、現在、#MeToo が世界的なムーブメントになって、これをきっかけに世界が大きく変わってゆきそうな気配を感じますが、それと同時に、「セクハラの被害にあった人は全員経験を述べなくてはいけない」という無言のプレッシャーを与えてしまう恐れを感じています。

私は、前述のセクハラにあった際には鬱になりかけましたが、今はこうして言えるレベルです。ですが、私とは比べものにならないような簡単には語れないような被害を受けた方もたくさんいらっしゃるわけで、そういう方たちが「自分は声を上げられない勇気がない人間だ」と自分を責めませんようにと祈っています。


また、セクハラ被害を打ち明けると、その人の落ち度が徹底的に糾弾されがちですが、そうなってしまうと「自分も悪いところがあった」と予防線を張っておくか、ツッコミどころがない完璧な人しか声を上げられなくなってしまいます。でもセクハラは、それ自体で人間の尊厳を傷つけるあってはならないことです。


声を上げた人が見せしめに吊し上げられる姿をみて恐れて沈黙してしまわないためにも、この#MeTooムーブメントが大きなうねりとなって、セクハラ撲滅につながることを願ってやみません。


メリークリスマス。



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いかに人間らしく最期を迎えるか [アダルトチルドレン]


橋田壽賀子さんが安楽死を望むという記事を目にして、考えたこと。(一部グロい表現があるので、お食事中の方は読まれないことを推奨いたします)


自殺衝動に悩まされることがなくなったとはいえ、どう最期を迎えたいかということは常日頃よく考えます。

自由を奪われることが極度の恐怖で、閉所に入ると窒息しそうになる私にとって、チューブまみれで無駄な延命治療を施されて病院のベッドの上で最期を迎えるということは絶望以外の何物でもありません。

これまで二度、ちょっとした手術と食中毒が原因で、それぞれ一週間程度の入院をしたことがあるのですが、日々自分の魂が弱っていくのを感じました。


親族中で一番年下で近い血筋に甥や姪もなく、驚異的な長寿家系の私は、大病や事故に合わず天寿を全うするとなれば、8歳上のキリストダンナより長生きし、一人で最期の時を迎えるはずです。

楽しい瞬間にポックリいくのが理想的ですが、それが叶わないならばどこかの山小屋でひっそりと野垂れ死にして、動物に喰われたり細菌に分解してもらって大地にそのまま還りたい。


しかし、そうして最期を迎えると、「孤立老人が孤独死」と、哀れみを持って見られることになるのかもしれません。しかし、人間は誰だって死ぬときは一人なのに、なぜ孤独に死ぬことがいけないのでしょう。なぜそんなに一人で死ぬことを恐れなくてはいけないのでしょう。最期まで自発的に自由を貫いて亡くなった方もいるかもしれないのに、すべてを一括りにして哀れな色を付ける「孤独死」という言葉が私は大嫌いです


確かに、私は親族に警察関係者がおり、いわゆる「孤独死」や自ら命を絶たれて時間が経った現場の凄惨さを聞いたことがあります。最期にそうして誰かの手を煩わせるのは、申し訳ないものです。

また医師がいないところで亡くなると、不審死扱いで司法解剖をされ、冷たい台の上で主要な臓器を全部出され検査されるとのことで、「そんな姿は居たたまれないから、死ぬときは病院で死んでくれ」とも言われました。その思いにはできる限り応えたいとは思いながらも、それでもチューブにつながれて病院で死ぬのはなんとしても避けたいと思ってしまうのです。


しかし不治の病で動けなくなって、出来ることは苦痛を緩和するだけになったり、痴呆で完全に意識を失って周りに迷惑をかけるようになってしまいそうになったなら、その時には安楽死を選べたらと考えています。最近、スイスやベルギーをはじめとして安楽死が合法化された国が増加していますが、いつか日本にもその選択肢が増えることを願ってやみません。

法律の問題なども複雑に絡まって簡単には進まない議題ではありますが、これからますます高齢化や長寿化が進む中で、いかに人間らしく死ぬか、もう少し気軽に意見を言い合えるようになる空気が増えるといいなあと考えています。


アリスのままで [レンタル落ち]


アリスのままで 

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: DVD

人間の尊厳を問う、こんな映画もありましたね


ただ、こうしていかに死ぬかということを散々語ってきたわけですが、死ぬことの意識で、以前と大きく変わったことがあります。

自殺衝動に駆られていたときは、「死んで楽になりたい」と常に思っていたので、災害などの際に、自分が死ぬことで誰かが助かるのなら、喜んで命を差し出したいと思っていました。と同時に、人を押しのけてまで生きることに執着する人が心から羨ましく、「生きていて何がそんなにいいのか。その秘密が知りたい」と思っていました。

でも今の私は、多少の波に揺られたりはするけれど、生きることをとても楽しめるようになりました。これから色々なことをやりたいから、まだまだ人生を終わりにするわけにいきません。煩悩から自由になる悟りの境地に憧れはするけれど、今はこんなふうに命に執着できることになったことをとても幸せに感じています。


昔の私のように、生きることに執着したいのに出来ずにもがいている方へ。きっとそんな苦しい思いが終わる日がいつか来るはず。だから諦めないで生きてみてください。そんな煩悩まみれの幸せな日が来る時まで。



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我ら雑草組!しぶとく行きます。生きます。逝きません。 [アダルトチルドレン]


本日も沖縄です。旅は大好きです。どこにいてもなんとなく適応できていない根無し草のような私ですが、旅だと正真正銘アウェイなのでむしろ気楽です。

しかし今回の旅では、思いがけず素敵な戦友が出来ました。おとといのイベントの登壇者のお一人の、シリコンバレーで弁護士をされている吉田大さんなのですが、一般的にみたら超キラキラな経歴の方なのにも関わらず、紆余曲折人生を歩まれご自分を「雑草組」と例えられ、20年も遠回りしてしまった私を有り難くも仲間認定していただきました。(ベンゴシさんなんて恐れ多くてと思って恐縮していたのですが、めちゃくちゃ面白い方でした!!)

人生はかなり難易度の高いリアルRPGだと思うのですが、こうして時々強力なパーティに出会えるのは、戦闘力も防御力もアップする最高の出来事です。ええ、雑草のように踏まれても除草剤かけられても、しぶとく生きますとも!


しかし、先日のイベントは「ここまで明かして大丈夫!?」と躊躇するくらいの、過去の傷カミングアウト大会でした。最初にマイクを握った登壇者のユーグレナ取締役の永田さんが、


「今日は子供たちも会場にいて、嘘は全部見抜かれてしまうので、登壇者のみなさんは隠し事なしでいきましょう」


と始められてからは、一日を通して、壇上にあがった皆さんがカミングアウトし続けました。

その傷も皆さん相当なもので、親のアルコール依存症や不在、交通事故、ひきこもりやいじめ、異文化への無理解など凄まじいレベル。イベントタイトルは「LEAP DAY」だったのですが、「DEEP DAY」だという冗談まで出ていました。でもそういう方々から出てくる「何故今この仕事をしているのか」「人生で何を実現したいのか」という言葉は、やはり桁違いの臨場感と説得力がありました。


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こんな方々が登壇されていました。キリストダンナも混ぜていただいております。

また、主催者も、沖縄をよくしたいという思いで9年間もこの活動をされてきた方で、これまでの入場料・出演料無料で関わる方々の善意で運営してきたボランタリーな組織から、誰も骨身を削らず永続的に開催できるよう法人化をしてのチャレンジでした。

半年間の研究成果を発表した小学生たちから社会人の登壇者や主催者の方々まで、皆がそれぞれの立場で戦う姿を露わにされていて、会場が不思議な一体感で包まれていました。理想を実現すべく戦う姿ほど尊いものはありません。すすり泣きが会場の至るところから漏れていましたし、私も一日泣きっぱなしでした。心のサビを落としてくれる、本当に素晴らしいイベントでした。



アダルトチルドレンの体験を綴り始めて少し経った現在も、「自分も機能不全家庭で育った」とメッセをいただいたり、直接お声がけいただいたりしています。その数は本当にびっくりするほど多く、いわゆる「まともな機能完全家庭」に育った方の方が圧倒的に少ないのではないのかと思い始めているほどです。

しかし今回の皆さんのお話をお聞きして、辛い過去をむしろ生かし、燃料のような原動力に変えて走り続けていらっしゃっている印象を受けました。誰もこんな傷を望んでいなかったでしょうし、もし生まれ変われるのなら幸せな家庭で愛情をたっぷり受けて育ちたいと願われると思うのですが、そこで自分の置かれた環境を嘆くのではなく、それが何にどう生かせるのかと冷静に取り組む。言葉でいえば簡単ながら実際に行うのは大変難しいことですが、これが暗い穴から脱出するための大事なハシゴなのだと痛感しました。


最後に、最近ずっと「まともで健全な家庭」とはどんなものなのかを考えているのですが、登壇者の方のお話に一つヒントがありました。親に常に「何をしたいの?」と聞かれて育った子供たちは、人間的にも能力的にもぐんぐん伸びるとのこと。

子供の本来の姿を見つけて伸ばしてあげる、それはとどのつまり子供を信頼し対等に扱うということなのかもしれません。

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リアルまもる君と敬礼!とてもラブリーな方でした。お勤めご苦労様です!

 



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