素敵なパーティで自己嫌悪にまみれたのちに再確認したこと [アダルトチルドレン]
先日、日本のIT界を牽引されてきた、サム古川さんこと古川享さんのお誕生会兼生前葬にお邪魔して参りました。
生バンドの演奏も入ったおしゃれな会場には、テレビをほとんどみない私でも知っている超有名な方がゾロゾロ。様々な業界の第一人者の方ばかりでした。
ダメすぎるコミュ障な私…
しかし、私はといえば、もともとキリストダンナを通じてお知り合いになりご招待いただいたのに、その彼が出張で参加できなかったこともあり、ほとんど知り合いがいないひとりぼっち状態。
コミュ障な私は、どうしてよいかわからずオロオロし、しまいに貧血を起こして、早々とお暇させていただく情けなさ。
パーティの機会をうまく生かされる方はきっとすいすいと人脈を広げられのでしょうが、せっかく古川さんが「この人と知り合うといいよ!」と事前に教えてくださっていたのに、私は全く生かせず自己嫌悪にまみれて帰宅しました。
後ろ盾がなくなったときの自分の価値
最近、キリストダンナのツテで、古川さんをはじめ、昔なら雲の上の存在だった素敵な方々にお会いできることが増えました。
しかし、それはあくまでも、私が彼のヨメであるからこそ。
それを常々自覚はしていたものの、いざ彼という後ろ盾が無くなったときの自分の無力さは想像を遥かに超えるもので、コテンパンに打ちのめされました。
しかし、しばらく落ち込んで頭を冷やしていると、人との関係性で自分の価値を決めるという長年の悪癖に再びとらわれていたことに気がつきました。
せっかく一月のシリコンバレー合宿でこの枷を外してもらったのに、油断すると、またすぐに飲み込まれてしまいます。
人から認めてもらったり、影響力を手に入れることは、もちろん渇望するものだけれど、それは自分のやりたいことを実現するための手段であって、ゴールではないはず。
人との出会いも、有名無名ではなく、お互いの人生に心から共鳴できるものでありたい。
自分のやるべきことだけを心の中心に据えて、何があっても、人にどう思われようと、どんと構えていられるようにならねば、と心に喝を入れなおしました。
このパーティでは、せっかく古川さんにいただいた機会を私は無駄にしてしまいましたが、古川さんをお祝いしたいという思いだけは達成できたので、よしと思うことにしました。
三途の川岸から戻られて
古川さんは、一度、脳梗塞で三途の川を渡りかけています。
ぜひともこちらの講演のビデオをみなさんに一度ご覧いただきたいのですが、最後に声を詰まらせながら、「自分はみんなをエンパワーするために、この世に戻された」とおっしゃっているところには、思わず号泣しました。
昨年、アメリカの別荘に夫婦でお招きいただいたのですが、私たちのお世話のため、古川さんは滞在中ずっと杖をつきながら歩き回られていました。しかも、出発の朝には私たちよりはるかに早く起床されて、飛行機で食べるようにとスクランブルエッグ入りの美味しいマフィンまで持たせてくださいました。
私たちのために何故古川さんがそこまでやってくださるのか、その時はわかりませんでしたが、この動画を観た今ははっきりわかります。
今回のパーティも、ご自身のお誕生会だったに関わらず、参加者の皆さんに楽しんでいただくためのセッティングや、人を繋げる仕組みのために、睡眠を削ってまで作業されたようです。
全ては周りの人をエンパワーするために…!
インスパイア、そして、エンパワー
私は最近、人生のミッションを、「人を楽しくインスパイアし、エンパワーすること」としています。
もちろんこのエンパワーという言葉は、古川さんのTED講演からいただいたものです。「癒し」からもう一歩踏み出して、起爆剤を仕掛けるような言葉がないかなと探していた時にこれだ!と思った言葉でした。
実際、私が以前ADHDとわかったとブログで書いたときに、古川さんに「ボクもです。こちらの世界へようこそ!」とfacebookでコメントをいただき、少し戸惑っていた私は強力にエンパワーされました。
アダルトチルドレンやADHDを原因とした自殺衝動の暗闇から一足先に脱出できた分、今現在苦しんでいる人を解放したい、元気付けたい、最近ますます私はそう思います。
相変わらずときどきグラグラと揺れてしまう私ではありますが、そんな時は立ち止まって、きちんと地面に足をつけて、今やるべきことだけに集中して進んでいこうと思います。
ダメな自分を出したら気楽になった
最後に。以前の私だったら、貧血とはいえ素敵なパーティを這々の体で逃げ出したなんて、恥ずかしくて書けませんでした。
でも平気な顔をして取り繕って自分の中に膿を貯めるよりも、ダメなところをさらけ出して、誰かに笑ってもらったり、共感してもらった方が、気が楽になると思うようになってきました。
人づきあいが得意でない上に、あらゆることが上手く出来ず、恥を重ね続けている人生ですが、もし同じように悩んでいる方がいらしたら、こんな解決法もありますよ、と提示させていただければ幸いです。
お料理上手な古川さんが作ってくださった美味しいエッグマフィン。スターウォーズの袋入り。このお心遣いに、機内でキリストと泣きながら食べました。。
独りで立ったら自由になれた [アダルトチルドレン]
私が最近ようやく「心の自由」を手に入れられるようになった、大きな要因。それは、
他人への精神的な依存をやめたこと。
いわゆる健全な人には当たり前のことだけれど、私はこれに気がつくのに、40年近くかかった。
24歳で一人暮らしを始めて独り立ちしたつもりでいたのに、自分のグラグラな心を支えてくれるものを常に探していて、本当に独りでは立っていなかった。
世間は恐ろしいところだと、それなのに私は何もできない人間だと、そう刷り込まれていたから、自分の何もかもに自信がなくて、いつも不安に苛まれていた。
ちょうどカリスマ的な魅力の人物がいつもまわりにいたから、私は次から次に自ら取り込まれにいっては、お伺いをたてていた。
でも、
他人に人生を委ねると、
他人に振り回されることになる。
私はますます自分を失っていった。
そんなとき、キリストダンナに「最近独立できてると思ったのに、また新しいカリスマに依存しはじめてるよ」と指摘された。
同じ時期に、イベントや制作をサポートしてくれていて私が依存しかけていた友人から「奈緒ちゃんは独りでできるんだから、独りでやりなよ」とも言われた。
このまま依存し続けたらダメになるなと頭のどこかで気がついてはいたけれど、さすがにもう限界にきたんだなとわかった。
そして、独りで立って歩くことを、私はついに決めた。
本当に怖かった。
でも、独りで一歩を踏み出してみたら、
そこにあったのは、
素晴らしい自由だった!
それまでカリスマにびくびくしながら逐一お伺いをたてていたのに、もう自分の心に聞けばいいだけになった。
嫌いなものは嫌い。好きなものは好き。
やりたいことだけやる。やりたくないことはやらない。
突然、ものごとがシンプルになった。
以前、世間は一つの大きなピラミッドになっていて、その頂点には「大御所」と言われる人が君臨していて、その人が世間を動かしているのだと思っていた。
その人ににらまれたり、価値がないと思われたらもう終わり。
でもそんなものは存在していなかった。
「大御所」と言われる人はよく入れ替わるしたくさんいるし、色んな大きさや形のピラミッドが数えきれないほどあちこちにあった。
大きなピラミッドが突如崩壊したりもするし、大きなピラミッドにいた人が、小さなピラミッドを楽しそうに登っていたりする。
自分の足で歩き始めたら、そんな風景が突然見えるようになった。
40歳。一般的に言ったら気が付くのが遅かったけれど、人生を軌道修正するのには間に合った。
最近、ようやく自分が本当にやりたいことが固まった。
でもADHD的性格で、「これだ!」とひらめいても、興味の対象がどんどん移り変わっていく。
前はそんな自分の飽きっぽさに落ち込んでいたけれど、今はそんな性質もいとおしくなってきて「好奇心旺盛ですから」と開き直っている。
今は、
そのときそのときに自分のやりたいと思ったことをやるぞ、
誰に何いわれたって構うもんか、
と思う。
元来私は人と合わせられない性格で、いつもどんなところからもはみ出てしまって、それが自信を失わせる元凶になっていたけれど、合わせる必要なんかないと思ったら、気楽になった。
自分だけのピラミッドを作ってしまえ。
いや、どうせなら、
天邪鬼な私らしく上方向じゃなくて、穴を掘ってやれ。
そう考えたら、なんだか無性に楽しい。
ただそうは言っても、人に褒められたらやっぱり嬉しいし、時々は昔の癖が舞い降りてきて人目が気になったりする。
でも、今はもうハッと気がつくことができる。
暇人だった先月には、自分で存在意義を積み上げられることにも気がついた。
そして、嬉しい副産物も。
堂々と自分のやっていることを人に話せるようになったら、面白がってくれる人が出てきて、色んなことが繋がり始めた。
こうなると自信がどんどん湧いて来る。
世の中でのびのびと生きている人は、この自信増幅スパイラルの中にいたんだな。
今はカリスマに出会っても、前みたいに取り込まれない。ただただ素晴らしいと感動するだけ。
そして、こうなってから、色々なことが変わった。
少し前までは、イヤホンに大音量で音楽を流して、世界と隔絶しないと外を歩けなかった。でももう必要ない。
また、家に侵入されて必死で防戦しながら逃げ回る夢を、生まれてこのかた毎夜見ていたけれど、それもぱったり止んだ。
もう自分を守るために扉を固く閉めて隠れなくていい。
なんなら扉を開けっぱなしておいてもいい。
閉じるべきときは自分で決められる。
この変化は、独りで一歩を踏み出したことから始まった。
独りで踏み出すのは恐ろしかったけれど、そのご褒美に、素晴らしい心の自由が手に入った。
自分の主導権も取り戻した。
あなたもがんじがらめになっていたら、騙されたと思って、ぜひ独りでの一歩を。
世間は優しいところもある、なかなか楽しいところみたいですよ。
亡くなった5歳の女の子のメモを読んで [アダルトチルドレン]
亡くなった5歳の女の子のメモ。
日経新聞夕刊で連載されている小説。
こどもの虐待はいつもどこかで繰り返されている。
最近はだいぶ昔の記憶が薄れ、
「やるせないよね」という言葉を機械的に当てはめて、
他人事のように読んでいました。
しかし、いったん彼女の心に寄り添ってみようとしたら、
途端に自分の過去の傷に引き摺り込まれました。
愛に飢えて、
安全地帯を泣きながら探していたこどもの私。
彼女の両親の行為は、
心の余裕がなくてという性質のものではなく、
痛めつけることを目的したサディスティックなもの。
私とは到底比べられないレベルだったし、
心に余裕が出て気遣いをしてくれるようになって
ただのぶっ飛んで面白い人になった母のことは、
私は今では好きになっている。
でもやはり傷跡は残っていて、
きっと完全に消えることはなく、
こうしてこれからもときどき
何かのきっかけでスイッチが入るのだろう。
その傷と折り合いを付けるだけ。
私には、
虐待されている家庭のこどもを
直接的に救うことはできません。
でもそこから生き延びたこどもや、
こどもだった人に、
できることはある。
それが、今後の私の人生の使命だと思っています。
亡くなってしまった彼女が、
どうかどうか、
安らかに眠れますように。
虐待している親御さんへ。
傷は、
こうして大人になっても残って、
苦しめ続けます。
生き延びた方。
死なないで。
手を取り合って生きていきましょう。
心の金継ぎ職人 [アダルトチルドレン]
脳内を飛びまくっていた塵が落ち着いて視界がクリアになると、これまで外からの「ハッピードーピング」に頼りすぎていたと感じるように。自己生成したハッピーをどんどん貯金できるようになりたい。精進します。
愛着障害…?
以前知人から、私の症状はADHDでなく「愛着障害」ではないかと指摘されたことがありました。
こちらを読んでみたらと、まさにそのもの。ただ、私のハードウェア自体が不具合を起こしている自覚はあるので、ADHDと愛着障害の両方ではと疑っています。
でも、自分に一番必要なのは、病名ではなく対処法。心の解放と平安が、常に私の求めるところです。
この世とあの世の、髪の毛一本ほどの敷居
しかしこの本を読むと、幼少期に受けたキズの悲しい影響力の大きさに改めて愕然とします。(だいぶ克服したとはいえ、まさに自分が身をもって感じています)
親が子供にやってあげたことをそんな風に思うなんて薄情だし、大人になってからも引きずるなんて大袈裟だよね、と批判する人もいます。
しかしこれだけ虐待が問題になり、社会に適応できず鬱になったり自殺する人が少なくないことをみれば、心の持ちようではどうにもならないことは明白です。
大袈裟だと笑える方は心が健全丈夫で、羨ましいことこの上ないですが、渦中の方にとっては、これは言葉の暴力に他なりません。
私は、この世とあの世の敷居は、髪の毛一本ほどしかないと考えています。
その一本を跨いで自らあちら側へ行ってしまった友人や知人が何人もいますが、Facebookで彼らの誕生日が通知され、時が止まったままのウォールを目にするたびに、これは決して大袈裟という言葉で片付けられない、死者を出すほどの苦しみなのだと思い知らされます。
その瀬戸際を徘徊した私が向こう側へ行かなかったのも、ほんの髪の毛一本ほどの差でしかない。生還したサバイバーとしてできることは何なのか、常に考えさせられます。
心の金継ぎ職人として
しかしこの本の中で救いだったのは、
「人を支えることで自分のトラウマが克服できることがある」
とあったことでした。
自分がまずハッピーにならないと何も出来ないと思い込んでいましたが、そうか同時にやればいいのか、とふっと力が抜けました。
確かにこうしてブログを書き始めて「自分だけじゃないと勇気をもらえました」などという声をいただくたび、私自身のハッピーが貯金されています。(みなさま、ありがとうございます)
昨年この体験を出していこうと決めたとき、ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』のような「私についておいで!」という強い存在になろうと思いました。でも、それはまったくもって私らしくなかった。
それよりは、割れて片隅に打ち捨てられた心に金継ぎを施して、「ほいっ、第二の器人生を楽しんといで!」とまた棚に戻してあげる、そんな「心の金継ぎ職人」のといった方がしっくりきます。
継いだらもう水は漏れないし、素敵な金の飾りまで手に入る。
そんな名誉のキズあとを勲章として堂々と誇っていきましょうぜと、背中を押す存在でいたいと思います。言葉やアート仮装など、自分の持てるあらゆる手段を使って。
そして、心のキズは、傷ではなく「瑕」といいたい。「玉に瑕」だけだと価値が下がるけれど、瑕に金継ぎを施した玉は、世界で一つの稀少なオートクチュールだから。
「ハッピー貯金」と「心のアンテナ」 [アダルトチルドレン]
しばらくまた穴に落ちていました。体も頭も鉛のように重く、ハッピーを思い出そうとしても空回り。
落ち込むことがあったということもありますが、一番の原因はいろいろと忙しかったことが一段落して、時間ができたこと。展示やイベントの後には、必ずこのような谷間に落ち込みます。
「何もやらなくていい。そのままでいい」。シリコンバレー合宿から持って帰ってきたこの答えは、私にとってのゴールながら、未だに一番の難題なのでした。
いつもなら何かで気を紛らせてこのような期間をやりすごすのですが、さすがにそろそろなんとかしたいと思い、今回は瞑想などをしながら徹底的に心に向き合ってみています。
一つわかったこと。
「何かをしていないと、何かを成し遂げないと、自分には存在価値がない」と無意識に思っている。これが諸悪の根源であること。
これは「暇である=誰からも必要とされていない=存在価値がない」と自動的に変換されます。
しかしこれは、自分の存在意義を他人に委ねること。自分自身で価値を付加していけるようにならないと、いつまでたっても苦しみから自由になれません。
この考えのおおもとは昔に親に植え付けられたものですが、関係が良好になった今でも、私の心には棘のように刺さったまま。いい加減もう抜かないと。
「心のアンテナ」を内部に向けること
アダルトチルドレンには、他人に存在意義を委ねる傾向が多くあると言われていますが、なぜそのようなことが起こるのか。
以前読んだ関連書籍にこのような図がありました。(記憶スケッチ+アレンジ済みです。いい加減な絵で失礼!)
子供の意識を「心のアンテナ」と表現しているのですが、これを初めて目にしたとき、自分の心の中で何が起こっていたのか、ストンと納得がいったことを覚えています。
健全な生育環境(右)では、子供は心のアンテナを内部に向け、「自分が何をしたいのか、どう感じるか」と常に心の声に耳をすまし、わがままを言いながら伸び伸びと育ちます。
しかしアダルトチルドレンとして育つと(左)、安心できる環境にいないことが多いため、外部の危険の察知用にアンテナを外に向けて張ります。自分の心をおし殺さないと生き延びられないので、常に心の中は空っぽ。
周囲の空気を読んで行動するので、学校生活では「調整役のいい子」として立ち回れたりして、あまり問題が顕在化しません。
しかし、「あなたは何がやりたいの?何になりたいの?」と問われるようになる成人後は、「生き延びることしか考えてこなかったから、やりたいことなんてない。そもそも考えたこともない!」と初めて気がつき、鬱になることも多いと言われています。
私も例に漏れず、長い間ひたすら「自分の心探し」で悪戦苦闘しました。(評価軸が自分の中にないので、自分が食べているものが、美味しいのか、不味いのかもわからなかった…!)
このように、オリジナルのゆるぎない評価軸で自身に存在価値を付加するためには、まずはアンテナを自分の中に向けて、心の声に耳を傾けることが大事なのです。
iphone依存症から脱却するために
しかし思えばこのところ、活字中毒&無音恐怖症の私は文字や音に極度に飢え、かなりの時間をiphoneを抱えて「iphone依存症」になっていました。
せっかく心の声に耳を傾ける重要性がわかってきたのに、「頭の中が余計な雑音でいっぱいだから消したい!」と、問題の根本に向き合わず、文字や音楽を詰め込んで上書きし、頭の中のみならず、自分の心の声までも埋もれてさせていました。
これは大問題…。
まずはiphoneをなるべく遠ざけ、自然の中を歩いたりひたすら瞑想をして、心の中を覗き続けることから始めてみました。
するとまだ二日目ながら、最初の禁断症状期を抜けると、色々な方向に大暴走していた雑音が静かになり、本来の自分のゆったりとした流れを感じられるようになってきました。そして、穏やかな幸せが少しずつ湧き上がってくるのも感じています。
新緑にまみれて、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』を読む。これは最高のリハビリになりました!
「ハッピー貯金」!
そんなとき、知人の放送作家の野呂エイシロウさんと簡単なやりとりをする機会がありました。近況を聞かれたので「ハッピーを自己生産するため内面に向き合っています」とお答えしたら「いいね!ハッピーを貯金しよう!」とのお返事。
ハッピー貯金!
なんて素敵なキャッチフレーズ。さすが超敏腕PRプロでもある作家さんです。
どんなにどんよりした一日でも、一つのハッピーくらいは探せば見つかるはず。
極端な私はいつも「超ハッピーにならないと!」と焦っては、現実とのギャップに落ち込むことを繰り返してしまうけれど、欲張らずに小さなハッピーを少しずつ心の貯金箱に入れていくのなら、そんなに難しくはありません。
そしてそんなハッピーを探すのは、とても楽しくてワクワクすること。
まだ私は絶賛「心の立て直し&構築中!」ですが、まずはアンテナを内に向けて、Emptyマークがついていた空っぽの心に、ハッピーを貯金していこうと思います。
みなさんも一緒にしてみませんか、ハッピー貯金。
カレーを食べ終わって蓋をしたら、ニコちゃんマークと目が合いました。スープストックのお姉さんありがとう。これも今日の大事な1ハッピーです。