心の金継ぎ職人 [アダルトチルドレン]
オリジナル瞑想合宿!とばかり、瞑想漬けの日々を過ごしていたら、元気になりました。
脳内を飛びまくっていた塵が落ち着いて視界がクリアになると、これまで外からの「ハッピードーピング」に頼りすぎていたと感じるように。自己生成したハッピーをどんどん貯金できるようになりたい。精進します。
愛着障害…?
以前知人から、私の症状はADHDでなく「愛着障害」ではないかと指摘されたことがありました。
こちらを読んでみたらと、まさにそのもの。ただ、私のハードウェア自体が不具合を起こしている自覚はあるので、ADHDと愛着障害の両方ではと疑っています。
でも、自分に一番必要なのは、病名ではなく対処法。心の解放と平安が、常に私の求めるところです。
この世とあの世の、髪の毛一本ほどの敷居
しかしこの本を読むと、幼少期に受けたキズの悲しい影響力の大きさに改めて愕然とします。(だいぶ克服したとはいえ、まさに自分が身をもって感じています)
親が子供にやってあげたことをそんな風に思うなんて薄情だし、大人になってからも引きずるなんて大袈裟だよね、と批判する人もいます。
しかしこれだけ虐待が問題になり、社会に適応できず鬱になったり自殺する人が少なくないことをみれば、心の持ちようではどうにもならないことは明白です。
大袈裟だと笑える方は心が健全丈夫で、羨ましいことこの上ないですが、渦中の方にとっては、これは言葉の暴力に他なりません。
私は、この世とあの世の敷居は、髪の毛一本ほどしかないと考えています。
その一本を跨いで自らあちら側へ行ってしまった友人や知人が何人もいますが、Facebookで彼らの誕生日が通知され、時が止まったままのウォールを目にするたびに、これは決して大袈裟という言葉で片付けられない、死者を出すほどの苦しみなのだと思い知らされます。
その瀬戸際を徘徊した私が向こう側へ行かなかったのも、ほんの髪の毛一本ほどの差でしかない。生還したサバイバーとしてできることは何なのか、常に考えさせられます。
心の金継ぎ職人として
しかしこの本の中で救いだったのは、
「人を支えることで自分のトラウマが克服できることがある」
とあったことでした。
自分がまずハッピーにならないと何も出来ないと思い込んでいましたが、そうか同時にやればいいのか、とふっと力が抜けました。
確かにこうしてブログを書き始めて「自分だけじゃないと勇気をもらえました」などという声をいただくたび、私自身のハッピーが貯金されています。(みなさま、ありがとうございます)
昨年この体験を出していこうと決めたとき、ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』のような「私についておいで!」という強い存在になろうと思いました。でも、それはまったくもって私らしくなかった。
それよりは、割れて片隅に打ち捨てられた心に金継ぎを施して、「ほいっ、第二の器人生を楽しんといで!」とまた棚に戻してあげる、そんな「心の金継ぎ職人」のといった方がしっくりきます。
継いだらもう水は漏れないし、素敵な金の飾りまで手に入る。
そんな名誉のキズあとを勲章として堂々と誇っていきましょうぜと、背中を押す存在でいたいと思います。言葉やアート仮装など、自分の持てるあらゆる手段を使って。
そして、心のキズは、傷ではなく「瑕」といいたい。「玉に瑕」だけだと価値が下がるけれど、瑕に金継ぎを施した玉は、世界で一つの稀少なオートクチュールだから。
脳内を飛びまくっていた塵が落ち着いて視界がクリアになると、これまで外からの「ハッピードーピング」に頼りすぎていたと感じるように。自己生成したハッピーをどんどん貯金できるようになりたい。精進します。
愛着障害…?
以前知人から、私の症状はADHDでなく「愛着障害」ではないかと指摘されたことがありました。
こちらを読んでみたらと、まさにそのもの。ただ、私のハードウェア自体が不具合を起こしている自覚はあるので、ADHDと愛着障害の両方ではと疑っています。
でも、自分に一番必要なのは、病名ではなく対処法。心の解放と平安が、常に私の求めるところです。
この世とあの世の、髪の毛一本ほどの敷居
しかしこの本を読むと、幼少期に受けたキズの悲しい影響力の大きさに改めて愕然とします。(だいぶ克服したとはいえ、まさに自分が身をもって感じています)
親が子供にやってあげたことをそんな風に思うなんて薄情だし、大人になってからも引きずるなんて大袈裟だよね、と批判する人もいます。
しかしこれだけ虐待が問題になり、社会に適応できず鬱になったり自殺する人が少なくないことをみれば、心の持ちようではどうにもならないことは明白です。
大袈裟だと笑える方は心が健全丈夫で、羨ましいことこの上ないですが、渦中の方にとっては、これは言葉の暴力に他なりません。
私は、この世とあの世の敷居は、髪の毛一本ほどしかないと考えています。
その一本を跨いで自らあちら側へ行ってしまった友人や知人が何人もいますが、Facebookで彼らの誕生日が通知され、時が止まったままのウォールを目にするたびに、これは決して大袈裟という言葉で片付けられない、死者を出すほどの苦しみなのだと思い知らされます。
その瀬戸際を徘徊した私が向こう側へ行かなかったのも、ほんの髪の毛一本ほどの差でしかない。生還したサバイバーとしてできることは何なのか、常に考えさせられます。
心の金継ぎ職人として
しかしこの本の中で救いだったのは、
「人を支えることで自分のトラウマが克服できることがある」
とあったことでした。
自分がまずハッピーにならないと何も出来ないと思い込んでいましたが、そうか同時にやればいいのか、とふっと力が抜けました。
確かにこうしてブログを書き始めて「自分だけじゃないと勇気をもらえました」などという声をいただくたび、私自身のハッピーが貯金されています。(みなさま、ありがとうございます)
昨年この体験を出していこうと決めたとき、ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』のような「私についておいで!」という強い存在になろうと思いました。でも、それはまったくもって私らしくなかった。
それよりは、割れて片隅に打ち捨てられた心に金継ぎを施して、「ほいっ、第二の器人生を楽しんといで!」とまた棚に戻してあげる、そんな「心の金継ぎ職人」のといった方がしっくりきます。
継いだらもう水は漏れないし、素敵な金の飾りまで手に入る。
そんな名誉のキズあとを勲章として堂々と誇っていきましょうぜと、背中を押す存在でいたいと思います。言葉やアート仮装など、自分の持てるあらゆる手段を使って。
そして、心のキズは、傷ではなく「瑕」といいたい。「玉に瑕」だけだと価値が下がるけれど、瑕に金継ぎを施した玉は、世界で一つの稀少なオートクチュールだから。