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不幸を張り合うことの不毛さ [アダルトチルドレン]


あなたの不幸は私ほどではない。だからあなたにはそれを言う権利がない。最近立て続けにそう言われました。

以前のブログで、傷の大小は関係なく、傷があるかないかだと書きましたが、それを今回はもう少し掘り下げようと思います。


世の中には、あんな軽い理由でと思われることで命を絶ってしまう人がいる一方で、大変な不幸の連続に遭いながらも生き続けている人がいます。

どちらの方が、より悲惨な境遇なのでしょう。結果的に死んでしまったから前者?明らかに大変な目にあったから後者?

これをジャッジをする資格は、誰にもありません。一つだけ言えるとしたら、両人にとって大変な人生だったというだけです。

時代も、境遇も、心の強度も、前提条件が全て違う中で、不幸の比較なんか出来るわけがありません。誰かの不幸に対抗するためには、より不幸にならなくてはいけませんが、このような競争は全くもってナンセンスです。お互いの傷の深さや大きさを競ったところで、何も生まれません。不毛なことです。

必要なのは、負傷者同士、手を取り合って安全な場所へ退避し、傷を癒し合うことです。

「あなたは酷い目にあったんだね、私も酷い目にあった。お互いよく生き延びたね」そう労い合うことに時間を使った方が、遥かに生産的です。人生の時間は限られています。

結果的に私は死にませんでしたが、死を選ぶか選ばないかは紙切れ一枚くらいの差だと思っています。私も心身が弱っていたらきっと決行していたでしょうが、私は幸か不幸か健康でした。



このように突っ込みどころを与えてしまったのは、私が何をされたのかを書いていないからでしょう。ただ、私が明らかにしたところで、たとえそれがどんなに酷かったとしても、冒頭のように「自分の方が」と考えている方には、きっと何を言っても無駄だとも思っています。


私のしたいことは、これまで何度も書いていますが、親がいかに私を傷つけたか糾弾することではありません。ただ、ここにサバイバーがいるという事実を伝え、十年前の私が知りたかった「絶望の穴からいつかきっと出られるよ」「出るためにこんなことをやってみたよ」と語ることです。

ヒーローになりたいのでも、被害者然として同情を集めたいのでもありません。単なる一事例の提示が、私の目的です。事故現場でも災害現場でも、そこに一人生存者がいるかいないかで、希望は大きく変わってきますから。



アダルトチルドレンとして傷だらけで生き延びてきた者たちにとって、この世の中を生きていくのは大変なことです。確固たる自己肯定感も自信もない脆く不完全な状態のままで、無理解、嘲笑、軽蔑など様々な弾丸が飛んでくる中を進まなければいけません。お互い傷を負った同士が、足を引っ張りあっている場合ではありません。手を取り合って進んでいかねば、生き延びてゆけません。



これからも冒頭のような声は飛んでくるでしょうし、もっと増えてくるかもしれません。また、「大人になったのに、子供時代のことにこだわっているのか」と苦々しく思っている人もいることでしょう。

しかし、アダルトチルドレンとして受けた傷は、正常な人格形成を阻害するため、克服しない限り一生付いて回ります。むしろ、大人になって社会と対峙せざるをえなくなったときに、これに起因する大きな問題が次々に湧いてきます。過去にこだわるのではなく、自分の未来のために、この問題に正面から向き合う必要があるのです。


以前の私のように、生存事例を知りたがっている人が少なからずいらっしゃると感じているので、そういう方に向けて、私はこれからも発信を続けていく所存です。


 



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